「真似」とはなんでしょうか。これは極めて難しい問いです。辞書を引くと次のように出てきます。
1 まねること。また、形だけ似た動作をすること。模倣。「ボールを投げる―をする」「アメリカ映画の―をする」
2 行動。ふるまい。「ばかな―はよせ」
今日の記事で使う「真似」の意味は、上記の意味のうち一つ目の「まねること」です。では「まねること」とはなんでしょうか。こちらも辞書を引いてみましょう。
[動ナ下一][文]ま・ぬ[ナ下二]他の人や物に似せる。まねをする。模倣する。「父親の口ぶりを―・ねる」「文体を―・ねる」
「真似」の中に「まねること」があり、「まねる」の中に「まねをする」という意味があるところを見ると、何やら出口のない迷路にさまよい込んだような気がしますが、今回の本質はそこではないので置いておきましょう。
辞書を引くまでもなく、「真似」、「まねる」と言った時、多くの人はこの意味をすんなりと受け入れることが出来るでしょう。その意味は大抵「他の人や物に似せる」という意味のそれです。
ここで問いを設定します。考えてみてください。
「真似は、どこまでが真似なのか?」
この問いに対して真剣に向き合おうとした人は、この問いの曖昧さに気がつくでしょう。”どこまで”の指し示す方向が分からないので、この問いへの答え方が難しいのです。一方では、自分が創る作品に含まれる模倣の要素を定量的に捉えたものという意味があり、他方では、もっと根源的な部分で行われている、ある種の心理的とも言える側面での模倣という意味があるのではないかと僕は考えました。
”どこまで”の定義の仕方によって、解釈の幅は広がっていきます。ですが、”どこまで”がどのような方向性を指し示す疑問詞であったとしても、「真似」の核に潜む独自性、言い換えれば「オリジナリティ」ですが、それは揺るぎないものであるはずです。
たとえば、自分と、その他の誰か、誰でもよいですし、何人でもよいのですが、自分を含めた複数人で、ある対象を「真似」したとします。この時、各人が作り上げた「模倣」は、質的に同等の物は決して出来上がりません。
これは各人の技能の差という観点もあるでしょうが、それだけではないはずです。すなわち、たとえ各人の能力が完全に均質のものであったとしても、それぞれが作り上げた「模倣」は、質的に異なるものが完成するはずです。それはなぜでしょうか。
思うにそれは、各人の対象へのこだわり、真似の仕方へのこだわり、対象から自らが感じ取ったもの、それを真似するに至った経緯、という具合に、至るところに技能では測りきれない差異が生まれるからです。これは同じ対象を模倣しようとしている他者との決定的な差となり、であればこそ、それは「オリジナル」の要素を含んでいるという言い方ができましょう。
そういう意味で、誰かの真似、何かの真似をする時、それはその対象の模倣を”創り上げて”いるのです。何かの真似をすることを非難する人もいますが、真似の中には確固たる「己」が眠っています。真似とは、その確固たる「己」を呼び覚ますための儀式とも言えるのではないでしょうか。
であればこそ、先人たちが創り上げた素晴らしい作品の模倣を創り上げることには、たくさんの重要な意味があると考えます。
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