知的生産活動における「会話」

大学に友達がいないわけではないのですが、大学に行ってから帰るまで、その日一言たりとも友人と会話を交わすことなく終わる1日が、実は昨年はよくありました。今年はわりかし話す機会がありますので、大学に行く日は友人と話をします。まあ四六時中くっちゃべっているわけではないですけれどもね。

会話にはたくさんの意味があると思います。気が沈んでいる時に友達と話すと心が楽になったり、自分が体験した嬉しい出来事を共に分かち合ったり、時には他愛もないことで口論になるなんてこともありますね。そんな会話は、知的生産という文脈においてはどのような意味を持つのでしょうか。

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普段自分が行う知的生産の手段について考えてみると、それはどこからか取り入れた情報をもとに自分の頭の中で何かを考え、そしてそれを紙やPCのメモに書き留めていくという作業が主になると思います。すなわち、専らひとりによって行われる知的生産です。情報を取り入れ、頭の中でこねくり回し、加工されたアイデアを書き留めるまで、基本的に全て行うのは自分です。

それに対して会話はというと、これは会話をする相手がいなくては成り立たない行為です。つまり、自分ひとりだけでは行えないもの。普段の知的生産には自分の健康な体と頭があれば十分でしたが、相手との意思疎通をツールとして用いるとなると、当然ですが相手の存在が必要になります。

相手の文脈把握力や理解力にバラつきが出てくることもありますが、ここではあまり本筋とは関係がないので触れないでおきます。

自分の考えを相手に伝えるという行為は、見方を変えると「相手の脳内のキャンバス(人の言葉を一時的に受け止めておくスペース)に自分の考えを書き留めていく行為」と換言出来るのではないかと考えました。自分の考えを紙に書き留めることも、それを誰か対象となる相手に語りかけることも、非常に似た行為なのではないかと。

そして、この2つの行為の似て非なる部分は、自分がアウトプットした先が知的生命体であるかどうかということです。紙やPCのメモに書き留めたところで、それを自分で加工しないことには、そのアイデアは膨らんでいきません。これに対して会話の相手に投げつけたアイデアは(その場に一定のルールや風土が必要ではありますが)、その受け手である相手方が手を加えてくれます。自分の考えが上手く伝わった場合とそうでない場合で、相手からのリアクションにも差異があり、会話が心地よいかそうでないかが決まる理由はこの部分にも含まれているのでしょう。いずれにせよ、自分の内なるものが相手の手によって加工されフィードバックされた時、あたかも全く別のものが返却されたとまで思えてしまうことがあるのは、自分の中には持ち得ない、他者特有の何かが自分のアイデアに付加されるからと言えるのではないかと思います。

「会話じゃなくたって自分のアイデアを書いたメモを相手に送ればいいだろう」と考える人もいると思いますが、会話の重要性は、それが「音として伝えられる」という点です。字面からのみでは伝わり切らない細かいニュアンスや気の浮き沈みを伝えるために、音は重要な役割を果たします。相手が自分の声色から感じ取る印象は、相手とその活動の方向を示し合うための指針となり得ます。

「一人で考え込んでうまくいかない時に誰かに話したらスッキリした、考えがまとまった」というのは、こういった一連のプロセスの中にその答えがありそうです。

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