堀江貴文氏『ゼロ』から、どうして僕が今まで勉強を続けて来られたのかが、ようやくわかった。

書籍
堀江貴文「勉強とは大人を説得するツールだ。」

ホリエモンの愛称で親しまれている堀江貴文氏が『ゼロ』にて記した言葉だ。

この節にて堀江氏は次のように述べる。

いま、福岡時代の自分を振り返って思うのは、僕にとっての勉強とは「説得のツール」だったことだ。子どもとは、大人の都合によっていくらでも振り回される、無力な存在だ。しかし、勉強という建前さえ掲げておけば、大抵のわがままは通る。(中略)。あのどん詰まりの環境から抜け出すには、勉強するしかなかった。誰の目にも明らかな結果を残すしかなかった。

(中略)

無駄に終わる知識はあるかも知れないが、周囲の大人を説得し、自分で自分の道を切りひらく最強のツールは、勉強なのだ。

堀江貴文『ゼロ』p.78

本書を読んだのはもう2ヶ月ほど前の話だが、当時はホリエモンが言うこの文章を、そのままの意味で捉えていたし、自分自身それで納得していた。というのも、僕も小学生の頃から周りの大人達を説得するためのツールとして勉強を利用していたのだ。

なので、僕にとっても勉強は大人を説得するためのツールであると言えるし、今後も大人を説得するためのツールであり得るはずだ。

しかし、自分にとっての「勉強」が、それだけの意味にとどまらないこともわかってきてしまった。本当はとうの昔からわかっていたはずだが、今の今まで見たくなかった現実から目をそらしていただけかもしれない。

では、僕にとっての勉強の意味とは、他に何であるのか。

僕にとっての勉強とは逃げの手段だ。

僕にとっての勉強とは、大人を説得するためのツールであると同時に、逃げの手段になってしまっていたのだ。このブログを読んでくれている人ならわかると思うが、僕は楽器を弾いたり将棋を指したり、ゲームをしたり本を読んだり、それなりに多趣味だったりするわけだ。

しかし、飽き性と手を広げたがる癖が祟って、どれも中途半端になる。そこで、勉強に逃げてしまうのだ。「本当は楽器をやりたいんだけれど、勉強しなくてはならないから」などと嘘をついて。

実際僕は勉強が趣味と同じくらい好きなので、いかにも勉強を苦行のように言う自分のこの発言がまず気に入らない。

「趣味は楽しむもんなんだから、周りなんて気にせず自分で楽しめばいいじゃないか」と言う人もいるだろう。わかっている。そんなことはわかっている。

ただ、僕は「せっかくやるなら突き詰めてやりたい」と思ってしまうタイプの人間であり、自己顕示欲の塊だから、「自分が楽しければオッケー♪」よりも「もっと質を高めていくには」「人に見てもらえるようになるためには」などということを考えてしまう。だから趣味がコンプレックスになってしまうのだ。

そこで先程の話に戻る。勉強への逃避だ。これは非常にコストパフォーマンスが高い。ホリエモンが言うように大人を説得出来る上、自己顕示欲まで満たせてしまうのだから、なんだったら趣味よりも自己顕示に向いているかも知れない。

僕にとっての勉強は、中途半端になってしまう趣味よりも、人を納得させて自分をひけらかすことが出来てしまうツールなんだ。

考え方次第でどうとでもなるだろう。

勉強は確かに僕にとって大人を説得するためのツールであると同時に逃げの手段であるのかも知れないが、先述の通り僕にとっては勉強も趣味みたいなものであるというのも1つの事実だ。

だから、勉強に逃げるというのは考え方によっては「他の趣味に手を出している」ようなものではないか。多趣味な僕が持ついろいろな趣味の中で、勉強が1番得意な趣味だと考えれば、先述してきたコンプレックスは解消され、自己顕示欲も満たせている。

何も問題無いではないか。そう、考え方1つでどうとでもなるのだ。

僕にとっての勉強は趣味だ。

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